銀そして金にかがやく 岡井隆さん追悼   尾崎まゆみ  玲瓏百三号特集 2020年10月号

2020年も12月を迎えてしまいました。

今年塚本邦雄生誕百年の節目に、岡井隆さんが逝去されるという偶然。

玲瓏103号に寄稿した追悼文をここに転載しておきます。

玲瓏にはこの追悼文とともに

岡井隆さんの素敵な写真が4葉、載せられているので、玲瓏会員が身近にいらっしゃる方は、本誌をご覧になってみてください。

とてもチャーミングな写真ばかり、塚本家に大切に保存されていたようです。

 

 

玲瓏103号
岡井隆さん追悼

 


銀そして金にかがやく   尾崎まゆみ

 

そして花そのものは銀そして金にかがやく、嗚呼つつましく  

       ポインセチアに捧ぐ  

    岡井隆「未来」二〇二〇年二月


君はただ見てていい役(やく)。昼がただ夜を喜び恋ひしたふのを
        ポインセチアに捧ぐ 

   岡井隆「未来」二〇二〇年二月


死のむかう側には暗い青空が無数の傷を産んで輝く
          死について 

   岡井隆「未来」二〇二〇年五月


死がうしろ姿でそこにゐるむかう向きだつてことうしろ姿だ   

        死について(続)   岡井隆「未来」二〇二〇年六月


ああこんなことつてあるか死はこちらむいててほし阿婆世(あばな)といへど

 

 

 「ポインセチアに捧ぐ」は未来二月号の作品。ポインセチアのいのちを愛でながら銀と金を見つめるまなざしが、眩しく、「君はただ見てていい役。」がせつない。五月号と、六月号に載った詠草は「死」の後ろ姿を真摯にみつめていて、しかも情に溺れず読者に語り掛けているような。どの歌にも岡井さんの存在が感じられて、こんな華のある作品が「未來」に毎月七首掲載されていたので、「死」は近づいているらしいことはわかっていても、やはり、不意打ちでした。


 訃報に接したのは、『塚本邦雄論集』の詰めの校正をしていて、『装飾楽句』『日本霊歌』『水銀伝説』のあたりは、『極』の同人の影響が大きいと、あらためて思いながら、間違いがないか確認しながら読み進んでいた時、偶然のような必然のようなめぐりあわせに思わず声をあげそうになりました。岡井隆、春日井建、寺山修司、浜田到、安永蕗子、山中智恵子など。綺羅星のような人々が同人となり互いを意識して短歌の革新を広めようとしていた様子が記された『極』は、創刊号しか出なかったけれど、前衛短歌というくくりを越えて短歌革新の心が実感できる冊子。
 岡井隆さんは、『極』のメンバーを見送った後も、積極的に若手歌人の中へ入り、様々な革新の場の核となり、その成果を私たちに手渡してくださった人。

 

七月十一日午後二時過ぎ流れてきた、「七月十日岡井隆さん死去。岡井隆塚本邦雄寺山修司、前衛短歌運動を担った三人の最後の一人が亡くなった」という報せは、瞬く間にネットの海に広がり、間を置かず様々な人の想いの波が、スマートホンの画面に押し寄せてきました。


 最初に引用した四首目の阿婆世(あばな)とは、名古屋方面であばよのことではないかという説とともに「ああこんなことつてあるか」に共鳴した人々によって、最後の作品として拡散され、さまざまな人の言葉は奔流となってあたりを充たし、会ったことのない人の呟く岡井さんとの思い出も、既知の人と対面して会話しているように鮮明に聞こえてきて、それぞれの人の想いに共感しながら、あるいは、距離を置きながら、私自身の哀悼の意を、流れてくる呟きに重ねていました。


 十五年前の六月、塚本邦雄の訃報を受け取った時は電話でしたので、情報が拡がって多くの人たちと共有できたのは、次の日以降。今回は、瞬く間に訃報が拡散され、共有されて、ネット上に一つの場が生まれて、その場は、核となる情報に接した人の哀悼の呟きをエネルギーとしてアメーバーのように、辺りを覆いました。
 その展開が鮮やかすぎたからでしょうか、常に時代の最先端を意識し、若い人の可能性を大切にした岡井隆さんにふさわしい野辺おくりの場に私は居合わせたのだと、気づいたのは、アプリを閉じてしばらくしてからでした。

 

 始めてお会いした短歌研究新人賞授賞式、サファリルックのジャケットで、仕事が終わり急いで駆けつけたという感じの岡井隆さんに、紹介してくださったのは、塚本邦雄。当時、「玲瓏」しか知らない箱入り娘?だったので、塚本先生の右後ろくらいに隠れていて、どぎまぎしていた私に、前橋の「雲雀料理店」のことなどを話されて、にこやかに対応して下さったのを鮮明に覚えています。


 次にお会いしたのは、1999年ころ。そのころ岡井さんは、さまざまな場所で超結社の歌会にかかわり、多くの若手歌人達と積極的に交流していました、東京中心ではなく、地方にも短歌について話し合う場所を創るという意図があったのだと思います。関西では京都、大阪で超結社の歌会をもたれていて、京都での金曜日夜の歌会にはほとんど伺えなかったのですが、未來会員の方から「淀川歌会」に誘っていただき、毎回出席するのが楽しみでした。「淀川歌会」は、当時新大阪駅の近くにあった会議室で土曜日の午後開かれていて、メンバーはほとんどが「未来」の会員、京都の歌会よりもアットホームな雰囲気で居心地の良い歌会でしたが、私の感じた居心地の良さは、岡井さんの盟友塚本邦雄への心遣いの賜物であったと、思っています。


 岡井さんは、当時私が、塚本邸によく伺っていたことをご存じでしたので、毎回必ず「塚本さんは元気ですか」と尋ねられ、私は「はい、お元気です」と答えるのが習わしのようになっていました。私の「はい」には毎回微妙に違うニュアンスがあり、岡井さんはその微妙な違いを敏感に感じ取られていたので、この習わしは、私にとって励ましであり、岡井さんにとっては、盟友の状況確認であったのではないかと思います。
 歌会は、いつもなごやかな雰囲気のうちに進行するのですが、何度か、「君たちは、短歌が解っていない。」と本気でおっしゃられたことがあって、その時の厳しく、孤独な横顔に盟友への想いを勝手に感じ取ったりしていました。


 たぶん見えないところでも、いろいろと気づかいをしてくださっていたのたのだろうと、思います。岡井隆さん、本当にありがとうございました。

 

若いころのぼくの手紙がひしめいてる塚本邦雄邸のひき出し
              岡井隆『馴鹿時代今か来向かふ』